スピルバーグによる華やかな映画の生前葬。『レディ・プレイヤー1』

いまから27年後の世界。人類はゴーグル1つですべての夢が実現するVRワールド[オアシス]に生きていた。そこは、誰もがなりたいものになれる場所。無敵のヒーローやハーレークイン、キティだってなれる夢の世界!

ある日、オアシスの天才創設者からの遺言が発表される――「全世界に告ぐ。オアシスに眠る3つの謎を解いた者に全財産56兆円と、この世界のすべてを授けよう」と。突然の宣告に誰もが沸き立ち、56兆円をめぐって、子供から巨大企業まで全世界の壮大な争奪戦が始まった! 果たして、勝利を手にするのは一体誰だ!

レディ・プレイヤー1

スティーブン・スピルバーグが『ペンタゴン・ペーパー』と並行して作った(!)『レディ・プレイヤー1』を見に行った。バックグラウンドこそ暗く閉ざされた未来の世界だが、小気味好いテンポのジュブナイル冒険映画である。見ていて面白かったんだけれど、だんだんと本作がスピルバーグによる「映画の生前葬」のように感じられて、淋しくもなった。

このレディ・プレイヤー1の世界では、映画に求めていたであろう様々な欲求をVRゲームが代替している。劇中で映画は古典文化になっていて、一部のオタクにしか興味を抱かれていない。固定された視座を2時間楽しむより、自分で動かせるインタラクティブなゲームの方がより刺激的なのだと思う。現実でも、プレイステーションが出たころから、ゲームの褒め言葉として「まるで映画のようなグラフィック」という比喩が飛び交うようになった(映画的なグラフィックに頼らない面白いゲームも数多く存在する)。映画に自分を重ね合わせていた人々にとって、自分が主人公となって参加できるゲームの誕生・進化により、映画はゆっくりと死を迎えたのだ。VRバイスが普及している本作では、RMTも行えるゲームが生活の主体となっている。

本作で大きな役割を持つ言葉に「バラのつぼみ」が挙げられる。1941年の名画『市民ケーン』からの引用である。『市民ケーン』は、大富豪・ケーンが最後に残した「バラのつぼみ」という言葉の示す意味を辿ることで、その生涯を追う筋立てとなっている。この作品は大胆な脚本構成や、あまり使われていなかった映像表現を駆使した作品で、現在では映画史に残る傑作と評価されている。ケーンの生涯に迫っていく構成は、そのまま本作の「ファラデーの人生」に迫りイースターエッグの鍵を探す構成に繋がる。

スピルバーグにとって『市民ケーン』は重要な作品で、作品内に登場するアイテムをオークションで落札しているほどである。「オアシスの創始者・ファラデーにとっての「バラのつぼみ」とは何か?」という問いかけは、そのままスピルバーグの「バラのつぼみ」を尋ねることであり、そのひとつは間違いなく『市民ケーン』なのだと思う。

映画は、『レディ・プレイヤー1』で予見されているように、いつかゲームに殺されるかもしれない。しかし映画文化を牽引してきたスティーブン・スピルバーグによって行われた生前葬の、いかに華やかなことか。80年代のさまざまなポップカルチャーの引用で彩られたお祭りである。映画史に、ポップカルチャー史に残る一作であるのは疑いようもない。そしてスピルバーグが大事にしていた作品である『市民ケーン』、そして『素晴らしき哉、人生!』の引用を用いた点でも、本作への深い思い入れが感じられる。ファラデーが主人公たちにバトンを渡すのは、スピルバーグが次の世代にバトンを渡していくことそのものなのだと感じた。今も80年代の文化を引用した映画やドラマが数多く作られている。

文化は継承され、文脈となっていく。