おとむらい

 朝、祖母が亡くなったと連絡が入った。粛々と身支度をして、新幹線に乗り込んだ。京都は「自分史上最強の私」とかそういうスローガンを夏が体現しているような暑さで、少しの距離歩いただけで汗が大量に流れた。

 子供の頃、夏休みに祖母の家へ泊まりに行くのが恒例行事だった。祖母の家は古く、調度品も見なれないものばかりだったし、電話は当たり前のようにダイアル式だった。2階への階段は狭くて急で、柱時計が真夜中にも音を立てる。やたらと大きな3面鏡が怖かったのを覚えている。
 年齢が近い従兄弟も同じ日に泊まりに来ていた。従兄弟に会えるのも楽しみの1つだった。おばあちゃんは孫が遊びにくるので、多分普段やらないような料理をしてくれた。ホットプレートで行われた焼肉大会は、油が跳ねまくっててゲーム性、アクシデント性が高かった。

 おそらく、僕を最初に買い被ってくれた大人の1人が祖母だったのだと思う。小学校低学年で、憧れでブラックコーヒーを飲んでいた僕を「この子は大人だねえ」と褒めてくれた。中学生の頃、「この子はこういうのが好きだと思って」と「10数cm物差しが4本重なってて、伸ばすと60cmまで測れる可変物差し」をプレゼントしてくれた。どうしてそういうイメージになったのか釈然としないけれど、たしかに僕はそういうものが好きだったし、今でも変わっていない。

 葬儀場へ向かう車内、1歳半の甥っ子は、バスが通るたびに「バシュ」と嬉しそうに叫んでた。甥っ子は電車とバスが大好きで、公共交通機関が好きなのは健全な気がして微笑ましく眺めていた。父と母は孫にメロメロで、「バシュだねー」「ほらバシュきたよ」と、しっかりおじいちゃんおばあちゃんしていてなんだか笑ってしまった。大雨の福岡で、渋滞を抜けて右折した瞬間、正面に夕陽が見えて、フロントガラスの雨粒が照らされて、車内は平和で。こういう一瞬のために生きてるなと思った。それが葬儀場へ向かう車内だとしても、美しいと感じてもいいじゃないか。

 最近は死にたくなるような出来事が積み重なって、誰かに話を聞いて欲しくて、優しい人を傷つけているような気がしている。優しくありたいし、美しくありたい。何よりも粋でありたい。祖母は美しく、老衰で亡くなっていた。年齢を感じさせない、美しい姿だった。こういう風に死ぬまでちゃんと生きていけるといいな。